先崎彰容氏の「高山樗牛」に原田直次郎作「騎龍観音」に言及している個所(P.44)があり、思い出したことがあったので書き留めておきます。
一般的に優れた絵画は、「絵画空間」と「表現スタイル」と「画題」が一体となっていて、分離して鑑賞することはできない。言わんや、そこから画題だけを取ってきて他の絵画空間に移植したところで、作品として成立することは稀である。
「騎龍観音」は、「ドイツ絵画」の空間に「高橋由一門下」の原田直次郎が、日本の画題である「観音と龍」を描いた作品である。仮に、「外来」の空間・スタイル・画題を「外」と表記し、「国内」の空間・スタイル・画題を「内」と表記したとすると、「騎龍観音」は、「外」の空間に「外」のスタイルで「内」の画題を描いていることになる。私たちが普段見慣れている絵画は、通常「外」の空間に「外」のスタイルで「外」の画題を描いているか、「内」の空間に「内」のスタイルで「内」の画題を描いているかである。
不思議なのは、この「内」「外」の組み合わせが不統一な作品だからといって、必ずしも「騎龍観音」のような「安っぽい豪華さの妙な感じ」を与えるわけではないという点にある。時代は下がるが、「内:水墨画」の空間に「内:円山四条派」の竹内栖鳳が、「外:サン・マルコ大聖堂」を描いた「ベニスの月」には、こうした感じはない。
誤解されると困るのだが、私はこの「内」「外」の不統一を欠点であるとは思っていない。それどころか大きな可能性を孕む利点だと考えている。なぜなら、日本絵画史上唯一の「多元的空間」を生み出すきっかけになった作品は、室町時代の狩野派の「内」「外」の不統一によるものだったからである。しかしその場合は、「内:やまと絵」の空間に「外:漢画系」の狩野元信が「外:四季花鳥図」を描く、というような組み合わせになっていた。おそらく「多元的空間」を生んだ最大の原因は、この「内」の空間に「外」のスタイルで「外」の画題を描くという倒錯的な組み合わせにあったのだろうと思っている。
では、明治時代の絵画には、「内」「外」「外」という組み合わせで描かれた作品はなかったのだろうか。私の知る限り、一点だけ存在する。それが、黒田清輝の「智・感・情」である。「智・感・情」は、「内:金地」の空間に「外:外光派」の黒田清輝が「外:裸体像」を描いた作品である。(モデルは日本人であるが、画題としての裸体像は、西洋画の伝統にしかないものである。)
室町時代に、漢画系の狩野派がやまと絵との統合を押し進めて多元的空間を生み出したことを思い起こせば、明治時代に、西洋画と日本画を統合する形で新たな多元的空間を生み出せなかった責任を、もっぱら日本美術院に負わせるのは不当なのかもしれない。洋画でも、黒田清輝が貴族員議員になったりせず、あと二十年画業に専念できていたなら多元的空間を生み出す可能性はあったのかもしれない。しかし、現実に最も早く西洋画の衝撃を踏まえて、多元的でこそないが曖昧な空間※に辿り着けたのは、竹内栖鳳率いる京都画壇であった。栖鳳の作品は、どうしてもその画題の達者な写実に目がいってしまうが、作品そのものを成立させているのは円山四条派ゆずりの空間性である。であったからこそ、福田平八郎や徳岡神泉など絵面的には師匠の対極にあるような画家が育ち得たのだろう。(※褒め言葉としての曖昧な空間)
大学一年生の頃、それまでは現代の日本画を桃山時代の障屏画の末裔と看做して漫然と見ていた私に、「この両者は何かが決定的に違う」という疑念が湧いた。もちろん、画題や描法が昔とは全く異なっているのは見れば分かるが、そんなことではない、絵画にとってとても大事な何かが決定的に違っている。しかしそうだとしても、それではいったい何が違っているのか。そもそも日本画という言葉は、明治初期に油絵:洋画に対抗して作られた概念である。だとすれば、歴史的経緯から察して、問題の源泉は横山大観らの確立した朦朧体にあるのではないか、あるいはそれに由来する漢画系の描線の軽視にあるのではないか、と当時の私は考えた。今にして思えば、朦朧体も一つの描法であるからそれだけで収まる話でもなく、そこからが長い長い暗中模索の始まりだった。そういえばあの頃は、前田青邨も存命していた。
永徳の空前絶後の力量をもって可能となった多元的空間は、孫の探幽ですら継承することのできないものだった。さらに、その探幽によって薄められた多元的空間は、粉本に粉本を重ねることで十八世紀にはすっかり硬直した凡庸な空間になっていった。そんな状況の中、一七三一年に来日した沈南蘋の作品が熱烈歓迎されたのは、想像に難くない。南蘋は写実的といわれるが、実際には動物以外は描き込んでいるだけであり写実的なわけではなく、絵画的には非空間である。いつの時代でもそうだが、絵画が魅力的な空間を持ち得なくなってくると、関心は描画に移っていく。後に円山応挙が、南蘋派の描き込みを取り入れつつ、辛うじて絵画を空間表現として提示できたことが、円山四条派の命脈を明治以降まで保たせる原因になったように思う。
漢画の単一空間とやまと絵の複数空間を統合することで得られた永徳の多元的空間とは異なり、宗達の多元的空間は、やまと絵に複数の空間をもたらしていた道具立てを整理し直すことで、演繹的に作り出された空間である。その道具立てとは、色であり、形であり、構成であった。それらは、料紙や扇面など初期の仕事をする中で発見され、水墨画や杉戸絵に於いては単一空間を作るために試用された。宗達は、多元的空間を展開するには、場としての屏風という道具立ても必要であることを知っていた。
やまと絵はその歴史の中で、絵画上に単一空間を作り出そうという指向を持っていなかったように思われる。それは、単一空間ではなくても色・形・構成などが整合的でありさえすれば、十分絵画として統一的な空間を作り出せていたからだ。しかし実際には、単一空間ではないが統一空間になっているという優れた作品ができることは稀だったはずである。一方漢画は、単一空間を指向するがゆえに結果的に統一空間を実現している作品が多かったに違いない。さらに、単純に両者を見比べれば、単一空間である漢画の方が見る者により強い印象を与えただろう。これらのことが、室町時代以降の武家中心の社会状況と相まって、漢画の隆盛を生んだと考えられる。
宗達が町絵師として仕事を始めた十七世紀初頭の絵画は、永徳によって完成された多元的空間の圧倒的影響下にあった。狩野派はもとより長谷川等伯や海北友松など漢画系の力量ある画家達も、永徳流の多元的空間を受け入れずには御用絵師としての仕事は成立しなかっただろう。京都で絵屋を営んでいた宗達の絵画的基盤は、平安時代以来のやまと絵である。恐らく絵屋としての「俵屋」の主力商品は、やまと絵系の扇や料紙だったのだろう。しかし、当然水墨画や漢画系の屏風絵の需用も多かったはずである。需用のあるものを作るのが生業であるとしても、流行ものを再生産しているだけでは他者との差別化はできない。他者との差別化ができなければ、絵屋として存続していくことはできない。そのあらゆる媒体に於ける差別化の結果が、永徳流の多元的空間とは根本的に違う宗達流の多元的空間を生み出したのである。
岩絵具や顔料の中には、その色自体が固有の空間を持っているものがある。それらは色面としてあるだけで、「突出しつつ沈み込む」空間を作り出す。胡粉・松葉緑青・本朱・群青がそうである。紙の上に押された金箔・銀箔も固有の空間を持っている。黒は、その意味では空間を持っているとは言えないが、墨の濃淡で作り出される空間は独特のものである。それ自体が固有の空間を持っているという事は、他とは異なる空間を持っているという事である。各々が異なる空間を持っているもの達を使って統一的な絵画空間を作りだそうとする試み、それが「舞楽図屏風」であり「風神雷神図屏風」である。
安土桃山から江戸時代初期の絵画には、独自の空間性がある。それは、単一空間ではなく、多元的空間である。おそらく、もともとやまと絵が持っていた空間性と室町時代以降の漢画の空間性が統合されて行く過程で生み出されたものだろう。その統合の最初の立役者は、狩野派二代目・元信である。始祖の正信が仏画や漢画しか描かなかったのとは違って、元信は土佐派などやまと絵の成果を大胆に取り入れて画期的な作品群を残した。しかし、それまで存在した事がなかった空間性は、まだまだこなれたものにはなっていなかった。この一筋縄では行かない統合を、比類なき力量によって完成してみせたのが狩野永徳である。
週刊朝日百科「国宝の美」第二号の表紙が、俵屋宗達の「雷神」だった。第一号の表紙は、興福寺の「阿修羅」だったから、国宝の中で二番目にキャッチーなアイコンという事になるのだろうか。本号には、「風神雷神図」の他に、尾形光琳「紅白梅図」、円山応挙「雪松図」も取り上げられている。しかし、安村敏信氏の文中にもあるが、そもそも江戸時代に宗達の評価は低く、光琳にはるかに及ばないとされていて、「風神雷神図」が宗達作として評価されるようになったのも、明治の後半だという。つまり、もし明治時代にこのような雑誌が刊行されていたら、「風神雷神図」はおろか宗達作品一切は、掲載候補にさえ上がっていなかっただろうと思われる。近年の宗達高評価の気運がいつから始まっていたのか定かではないが、確かに、私が子供の頃でさえ、宗達の知名度は今より圧倒的に低かったような記憶がある。